名言

為末大さんの「諦める力」を読んで勘違いしちゃいけないよ!目標を諦めろという意味じゃない!

投稿日:2015年5月1日 更新日:

為末大 諦める力

以前に良書としてご紹介した為末大さんの著書「あきらめる力」の内容を再度考えていたけど、これは取り様によっては「諦め」が美化される傾向にあると思ったので僕なりの考えを記事にします。

そもそもこの本で言う「諦める力」の本質は目標は変えずに、挑む方法を変えているということにある。

陸上という競技で「表彰台へ上る」という執念が為末さんを100メートルの選手からハードルへと転進させた。

それは「あきらめ」という言葉からはほど遠いものです。

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「諦める」という言葉の語源は、「明らめる」だという。仏教では、真理や道理を明らかにしてよく見きわめるという意味で使われ、むしろポジティブなイメージを持つ言葉だという。

諦めるという言葉の語源を見つめ直し「諦める」ことを弱者の判断だと思わないこと。

強者・弱者って考え自体が人生に於いてはナンセンスです。

種レベルで言えば適者生存なわけですから。

ジュニアといえど、世界レベルになると9秒台に近いタイムで選手たちは走る。
この衝撃は大きかった。
僕は、このときはじめて「努力しても100メートルでトップに立つのは無理かもしれない」という感覚を味わった。
高校三年生までは「頑張れば夢は叶う」という意識で行きてきた。

限界を知るというのは必要なこと。

人間の力や可能性は有限であることを認識するのは必要です。

「100メートルでメダルを取るよりも、400メートルハードルの方がずっと楽に取れるのではないか」。
にもかかわらず、100メートルでも400メートルでも、つまりラクを使用が苦労しようが、金メダルは金メダルである。
僕は次第に講考えるようになった。
「これだったら、400メートルハードルでメダルを狙うほうが、100メートルで狙うよりよほど現実味がある。」

冷静な目で自分を分析しています。

他人にこれは出来ても自分では出来ないものです。

幼少の頃から努力してきた道を切り替え、勝ち上がれることを念頭に置き、陸上のトラック競技全般を見つめ直すというのは中々できることではありません。

この辺りの見極めが目標を成し遂げるに当たって非常に重要なのだと思います。

今の僕にとって、何かを「やめる」ことは「選ぶ」こと、「決める」ことに近い。
もっと若いころは、「やめる」ことは「諦める」こと、「逃げる」ことだった。
そのように定義するとどうしても自分を責めてしまう。

諦めることも決断なのです。

これを「逃げ」と言う人はそこから「逃がしたくない人」に対して使うのです。

僕の会社は退職者が多いですが、辞めた人間に対して「あいつは逃げた」表現を上役達はよく用いていますが、優秀な人間ほど離れるのは早いです。

逃げたんじゃないんです。会社は逃げられたんです。

会社はその人に見限られたのです。

組織の負け惜しみが「あいつは逃げた」です。

そして、残っている人間たちに対して「逃げる」という言葉を用い、辞める事は悪い事だという洗脳をしているのです。

ブラックと言われる企業によく見られる光景です。

もう一度言います。

優秀な人ほど、ダメな企業を見限るのは早いです。

誤解のないように言っておくが、僕は400メートルハードルをやりたかったから100メートルを諦めたわけではない。
はじめて世界の舞台を見て、ここで勝ってみたいと思ったのだ。
しかし100メートルにこだわっているかぎり、それは絶対に無理だと思われた。

目標は世界の舞台で勝つこと。
そこに辿り着くための道を変えただけです。

「勝つことを諦めたくない」。そう、僕は「AがやりたいからBを諦めるという選択」をしたにすぎない。

まさにその通りです。
勝つための方法を変えただけです。
ご存知のように、為末さんは目標を達成しています。

多くの人は、手段を諦めることが諦めだと思っている。
だが、目的さえ諦めなければ、手段は変えてもいいのではないだろうか。
(中略)陸上界で最も「勝ちにくい」100メートルを諦めて、僕にとって「勝ちやすい」400メートルハードルにフィールドを変えたのは、僕が最も執着する勝利という目的を達成するために「必要だった」と納得できたからだ。

日本人が戦術と戦略を区別できない。という点に尽きると思います。
みんな戦争論を読もう。

「勝ちやすい」ところを見きわめるこうした考えを表明することは、今の日本ではリスクが大きい。
「私がこの種目を選んだのは、勝ちやすいからです」。
そんなことを言おうものなら、世間の人は言うだろう。「動機が不純だ」。

戦略として世界の無頼で表彰台に上る。というのはあるのなら
戦術が400メートルハードルを選ぶ。ということです。

僕はルイスの走る姿を生で見たことがある。
そのときの率直な感想は「自分の延長線上にルイスがいる気がまったくしない」というものだった。
僕がいくらがんばっても、ルイスにはなれない。

為末さんは自分をよく分析できるのだと思います。

可能性がなくなっていくと聞くと抵抗感を示す人もいるけれど、何かに秀でるには能力の絞り込みが必須で、どんな可能性もあるという状態は、何にも特化できていない状態でもあるのだ。
できないことの数が増えるだけ、できることがより深くなる。

一つの能力を伸ばしてあげると、他の部分も伸びてくるのです。
脳科学者の池谷裕二先生もそれについて書いています。

戦略とは、トレードオフである。
つまり、諦めとセットで考えるべきものだ。
だめなものはだめ、無理なものは無理。
そう認めたうえで、自分の強い部分をどのように生かしてかつかということを見きわめる。

戦略を練る最高司令官が頭の中に居て、ここで戦えと指示する。
そして現場の隊長が戦術を練り勝利へと導く。

一生懸命やったら見返りがある、という考え方は、犠牲の対価が成功、という勘違いを生む。
すべての成功者が苦労して犠牲を払っているわけではなく、運がよかったり要領がよかったりして成功した人の方が実際は多いのではないだろうか。

これはまた、スポーツという観点から見るのとビィジネスとでは違いは出てくる。
ようは努力と取るかどうかって事なんだと思うんだ。

僕も経験があるからよくわかるのだが、長くやりつづけることは賞賛されることはあっても、批判されることはまずない。
周囲も「諦めないでがんばって」と応援してくれるので、それに勇気づけられてがんばってしまう。

スポーツの世界を引退したら「手を差し伸べてくれる人」は少ないよ。
仕事をみつけ、その世界でまた自分の居場所と見つけるのさ。
だけどスポーツに打ち込んでいたことはコミュニケーションのツールになるし一目置かれるので生かせる。

人間は本気で挑んだときに、自分の範囲を知る。
手加減して飛べば本当はどのくらい飛べたのかがわからない。
だからいつも全力でやってほしいと子どもたちに言っている。
(中略)全力で試してみた経験が少ない人は、「自分ができる範囲」について体感値がない。

この箇所は本書の中で一番に好き。
自分もスポーツをしていたけど、これがうまく表現できなかった。
自分をしる為に全力を尽くすというのを伝えてやることで、子供達の挑む勇気に変わると思う

成功する確率の低い若者には「きみは、この先に進んでも成功するのは無理だよ」と言ってあげる大人が必要なのではないだろうか。
「きみが成功する確率は万馬券並だ。だから今の競技は諦めて、こっちに進んでみたらどうだろう。僕はきみがこっちに向いていると思うよ」。

そうだけど、これを直接的な言葉で伝えてはいけない。

伝え方に問題があると人は余計に意地になる。
僕みたいな頑固な人間は「やらなきゃわからんじゃないか!」と余計に意地になる。

何にでも意味を見いだそうとしすぎる人も増えたように思う。
イチロー選手が毎日カレーを食べていたところで、好きだという以外の理由はおそらくないだろう。

これはジンクスも関係があると思う。
あまり気にしなくて良い。

日本人は全力を尽くして全うするという考え方が強い。
しかも、辞め方は万人に納得してもらえるような美しさがなければならないと思い込んでいる。

それはある。これも先ほどと同じようにただ単に意味付け、動機付けが欲しいだけでしょう。

「勝てなくて申し訳ないと思っている」。
僕はこの言い方に強い違和感を覚える。
金メダルを取るために毎日身を削るような努力を重ねてきた選手は、力を出し切れなかったとしても誰からも責められるいわれはない。

僕も試合に負けたときには、トレーナーや応援に来てくれた友人達に誤っていた。
なんか時間を無駄に過ごさせたと言うような自責の念があったのかと思う。

僕という存在は、僕に今までさまざまな影響を与えたものの集合体であるという感じが抜けない。
自分に影響を与えたものについて考える自分自身が、すでに何かに影響を受けてしまっている。
確かな自分はどこにもない。
だからこそなるべく論理的であろうとするのだけれど、確固たる自分がいないのだから、結局仮決めの自分が仮決めの答えを出しているにすぎない。
自分さえこんなに不確かなのだ。
そういう人間が寄り集まっている世間そのものが不確かだ。
だから不安だとか、空しいというの人もいるかもしれないが、僕は、だからこそ何をやってもリスクがないように思えて冒険しやすいと感じる。

今の僕には「勘にゆだねる感覚」のようなものがある。
要は意識的に考えようとする自分を制御して身体に判断させる感覚だ。
この感覚がない人は運動を修正する能力が限定される。
(中略)「あの人はすごい」と言われるような人は。
無意識と意識のバランスが普通の人に比べて格段にいいように見える。

人間の脳には意識できる領域以外にも記憶があって、僕はそれが勘と呼ばれるものではないかと思っている。
自分でも気付かない、これまでの経験や情報の蓄積が無意識の領域で結びつき、「何となく」という感覚で私たちの意識の領域に現れる。

将棋の羽生善治さんは直観とは「論理的思考が瞬時に行われるようなもの」と言った。
堆く積まれた思考の束から、最善手を導き出すこと。
直観は、この導き出しうぃ行うことによって、脳の回路が鍛えられ修練されていった結果。

ほとんどの人にとっては、つらい時期を耐え抜いても成功しないことが多いのだ。
現実には10人のうち9人が成功せず、たった一人だけうまくいった人が、自分のロジックで語っているにすぎない。
「苦しい時期を耐えたら、必ず結果は出ますか」。スポーツにこんなアンケートを取ったとしても、おそらく90%は「出ないときもあった」と答えるだろう。

成功本に正解がないというのが現実で、そこに正解があった。という形でしか知ることができない。

成長と成功は違う。この違いに気付かないふりをする罪は大きいと思う。

成長だけで納得していては成功は掴めない。

「別の方向に進める可能性もあるが、あえて今はアスリートをやっている」人は、いい加減な気持ちでやっているわけではなく、ある意味で肩の力が抜けている。
勝つために全力を尽くすが、負けたからといって精神的に行き詰まらない。

切羽詰っていない人の方が強い。
人生には余裕を持って挑むべし。
僕の今年の抱負でもある。「余裕を持つ」。

勉強でもスポーツでも趣味でも何でもかまわないから、没頭し、必死に努力するという体験をしたほうがいい。
そうすれば「がんばってもうまくいかない」「あまりがんばらなくてもけっこういける」という感覚が得られるはずである。
これが大事なのだ。
長期的には「あまりがんばらなくてもなんとなくできてしまう」ことのほうに努力を振り向けた方が成長できる。

僕は絵を描くことや柔道がそうだった。
中学の先生に「柔道をやれ」と何度も言われたけど、ボクシングをやった。
結果・・・

努力には、「どれだけ」がんばるか以外に、「何を」がんばるか、「どう」がんばるか、という方向性があるということだ。
日本では指導者が、何をがんばるか、どうがんばるかまで決めてくれることが多い。

うん。

「陸上なんて、いつやめたっていいのよ」。
僕が真剣に取り組んでいる最中にも、母のスタンスは変わらなかった。

これは物凄く子供を楽にさせる。
良い意味で。

僕が100メートルをやめて400メートルハードルに移ろうとしたとき、もし母がこう言っていたらどうなっていただろうか。
「まだ18歳なんだからわからないわよ」「もうちょっとがんばってみたら?」おそらく、若い僕はあの時点で100メートルをやめずに、もう少しやってみようという気になっていたかもしれない。
そして、上がる見込みのないランキングに四苦八苦するうち、陸上に対する情熱を失い、勝つことに対する意欲も失っていたかもしれない。

かも知れないという理論だけど、可能性は高い。

清盛の時代の日本の人口は、現在の1億3000万人からすると約20分の1以下の500万人から600万人である。
単純に確率だけで考えると、天下を取るのは現在に比べたら簡単だったのかもしれない。

全体を見よう。

スタープレーヤーは、努力を努力と思わず、努力そのものが楽しいという星の下に生まれてきていることがほとんどだ。
才能があると思えているところからスタートしている努力と、自分にはまったく才能がないとしか思えないところからスタートしている努力は、苦しさがまったく違うのではないだろうか。

そもそも苦しさと感じている時点でダメだ。
才能というのはそういうものだけど、才能あるのにつかめてない人もいる。
「それは結果的に才能がなかった」では片付けられない。
だって。才能があったんだもん。

あなたにとっての苦役は、あの人にとっての娯楽。

いまでもそうだと思うんですけど、仕事から帰って縄跳びを一時間跳んで筋トレをやっている僕ですが全く苦じゃない。

ボクシングをやっている時もそうで、減量したり殴りあったりしてもその後の充実感が苦しみを超える。

書類を整理したり、会社でエクセルを触っている方が苦役だ。

苦痛のなかで努力しているときは「がんばった」という感覚が強くなる。
それがこころの支えにもなる。
ただ、がんばったという満足感と成果とは別物だ。
さほどがんばらなくてもできてしまうことは何か。
今まで以上にがんばっているのにできなくなったのはなぜか。
そういうことを折に触れて自分に問うことで、何かをやめたり、変えたりするタイミングというのはおのずとわかってくるものだと思う。

そうそう。頑張って出来る人と出来ない人はいる。

どんなに恵まれている人でも、自他ともにオンリーワンと言い切れるほど特徴がある人間なんてほとんどいあにから、「あなたはあなたのままでいい」という言葉を疑いなく受け入れられるほどの自己肯定感は、「社会側から自分は一切認められなくてもいい」という諦めと一体なのだ。
僕は人間なんてみんな一緒で個性なんてないのだから、何者かになる必要なんてないといわれたほうがほっとする。

逆もまた真なり。

僕は、何かを決断するために必要なアドバイスは、多くても5、6人からもらえば十分だと思っている。
身近で信用している人のアドバイスだとしても、間違っている可能性はある。
アドバイスは、どこまでいってもアドバイスの域を超えないのだ。

そう!アドバイスはアドバイスの域を超えない。名言です。

「自分はこのくらいの者だ」という感覚が洗練されていないと、たまたまうまくいっていることや、たまたまうまくいっていないことが「すべて」だと思ってしまう。
世の中の評価は移ろいやすく、褒めてくれていた人が手のひらを返したように冷たくなったり、貶めていた人がいつのまにか持ち上げてくれていたりと、自分ではコントロールできない。
だからこそ、自分の中に軸を持つことが大事なのだ。

哲学・思想を持つと人生が楽になる。
あとお金も少々。

人々を"平等原理主義"に駆り立てるのは何だろうか。
僕は「かわいそう」と「羨ましい」の感覚だと思っている。
自分を基準にして「自分より不幸でかわいそう」な人たちを救うべきだと考える一方で、「自分たちよりいい思いをしていて羨ましい」人たちからはもっと取るべきだと考えるのだ。
ここでいう「かわいそう」は他者を引き上げる圧力で、「羨ましい」は他者引き下げる圧力だ。
(中略)多くの人が考える一番のセーフティゾーンが「みんなといっしょ」というところになると、社会に活力がなくなるのではないかと思う。

民主主義が蔓延ったからです。
僕は日本医師会を見て、世の中は平等じゃないといy

「可能性は無限だ」。
こういう考え方を完全に否定するつもりはないけれど、だめなものはだめ、というのもひとつの優しさである。
自分は、どこまでいっても自分にしかなれないのである。
それに気づくと、やがて自分に合うものが見えてくる。

指導者の優しさでもありますよね。こういうの。

目標を持ち、やり方を変えながら前に進んでいこう。

時に後退することも必要だろう。後の前進を手に入れるために。

だけど、マクロ的な目標は捨てちゃいけない。

常に持ち続け挑み戦い続ける。

その戦いことが「学び」であり自らを成長させる経験なんです。

目標に挑むために戦い方を試行錯誤する。その一つが諦めです。

戦術を変えるのです。

最終的な目標を失うことを諦めとは呼ばないんだよ。

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