先日(5月26日)、京セラドームでのライブで初めてG-DRAGONを観た。
その瞬間、彼の放つオーラに圧倒された。
「観られている」という意識を持てる人と、そうでない人との違い――
G-DRAGONは、その違いを圧倒的な存在感で体現していた。
彼はMCで、生きる意味を探し、今もなお葛藤の中にいることを語った。
その言葉は演出の隙間からふと零れ落ちるように響き、パフォーマンス全体に影を落としていた。
その影は弱さではなく、むしろ彼の表現者としての深さを物語っていた。
この「光と影」の構図をめぐって、三人の言葉が思い出された。
まず、G-DRAGON自身の語り。
彼は「生きる意味を探している」と取れる言葉を語った。
だがその一言に、あらゆる痛みや問いが凝縮されていたように思う。
彼の表現は、その影を隠すのではなく、見せることで光らせていた。
小説家・村上春樹は『1Q84』の中でこう書いている。
「光があるところには影がなくてはならないし、影のあるところには光がなくてはならない。光のない影はなく、また影のない光はない。」
この言葉は、G-DRAGONのステージそのものだった。
強く輝こうとすればするほど、等しく深い影が生まれる。
その影を拒むのではなく、抱き締めようとする彼の姿が印象的だった。
そしてもう一人、心理学者ユングは更に過酷な現実を突きつける。
「影は、我々人間が前向きな存在であるのと同じくらい、よこしまな存在である。我々が善良で優れた完璧な人間になろうと努めれば努めるほど、影は暗くよこしまで破壊的になろうとする意思を明確にしていく。人が自らの容量を超えて完全になろうとするとき、影は地獄に降りて悪魔となる。なぜならばこの自然界において、人が自分自身以上のものになることは、自分自身以下のものになるのと同じくらい罪深いことであるからだ。」
この言葉は、表現者として生きるG-DRAGONの危うさと重なって見えた。
高く飛ぼうとする者ほど、深く落ちる可能性を秘めている。
それでも彼は、そのリスクごと自分を舞台にさらし、影を恐れない。
村上は影を「光の証」として肯定し、
ユングは影を「人間の業」として警告する。
そしてG-DRAGONは、言葉にならないかたちで、その両方を背負いながら表現している。
強く光る人には、深い影がある。
でも、その影を知るからこそ、私たちはその光に心を打たれるのかもしれない。
矛盾の中で哲学を語るG-DRAGONに魅力を感じた一日だった。
G-DRAGONへの見方が大きく変わった。
AKIRAさん、素晴らしい時間をありがとうございました。
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