By: Marcin Moga
ムスメたちを溺愛している僕ですが、叱る時は叱ります。
でも、冷静に「叱る」ときはいいんですけど、怒りに任せて怒鳴ったりするととても後悔します。
感情を抑えられなかったガキな自分への戒めのために書いておきます。
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お部屋の片付け
仕事から早めに帰るとムスメたちが「パパーパパーっ」と寄ってきます。
で筋トレする僕の横で一緒に動いたり、絵を描いたりして遊んでいました。
そして夕飯を食べる僕の横で、ムスメはまた黙々と絵を描いてます。
ここまではよかった。
「はい。寝る時間」となって部屋をみるとおもちゃだらけ。
いやもう布団の上に散かりまくり。
いつもだったらすぐに片付けるのですが、この日はダラダラして片付ける気配がない。
ママがキツク怒っても動かない子供たち。
ここで僕激怒。
床に散らばっているオモチャを全てゴミ箱へ捨てていきました。
泣き出すムスメたち。
怒鳴る僕。
「片付けろーっ!」
怒鳴ってしまった事を後悔する
By: Emran Kassim
涙を流しながら片付けるお姉ちゃん。
根性が座っている次女はまだ、僕が怒った後でも「パパね、これ書くねん。まだカタカナ書くねん。」と勉強することをアピールしてきます。(笑)
一生懸命片付ける長女の後姿を見ていると、怒鳴ったことを物凄く後悔しました。
僕も一緒にお片付けをしていると、何時ものようにムスメは「パパ大好き」と言って僕の横で寝るんです。
抱きついてくるんです。
どうしようもなく可愛いムスメです。
おれは小せえなぁ。
暴力の延長線上に愛情はありません
By: winnifredxoxo
怒るのと叱るのは別物で、感情のみが先走ってしまう僕はまだまだです。
気持ちを平常に保ち、冷静に対処して子供に対してルールを教えるのは躾(しつけ)と呼べるかも知れませんが、怒りという感情に任せた対応は躾とは呼べません。
手は上げてなくても、それは暴力と同じです。
内田先生も仰っていましたけど、「暴力の延長線上に愛情は無い」のです。
ぼくは自分の娘を一度だけ殴ったことがあります。
娘が三歳くらいのときです。
娘が、トイレ掃除用のバキュームを振り回して遊んでいて、やめなさいというのに面白がってやめない。
そのうちにぼくの顔にトイレの水が引っかかりました。
そのとき、いきなり平手打ちで娘の頬を張りましたが、そのときぼくを支配していたのは、まちがいなく「怒り」でした。
「しつけ」とか、「愛の鞭」とかたいそうなものじゃなくて、ただ、本を読んでいたのを邪魔され、気分を害して、怒ったのです。
娘が火が点いたように泣き出して、はっと我に返って、深く反省しました。もし、あのときに自分のふるった暴力を「しつけのために必要なことだった」というふうに正当化したら、その後も娘を定期的に殴っていたかも知れません。
だって、その後も殴り続けないと、三歳のときに殴ったことの正当性が揺らぎますからね。ぼくは一度だけ娘を殴って、人を殴るときに、その動機の中に「親としての愛情」などどこを探してもないということを知ったので、以後二度と子どもには手を上げないと決めました。
そして、愛情から人を殴るということはありえないということもそのときに学びました。
人を殴るのは、憎いから殴るのです。
子供に対して暴力を振るってしまうときって、精神的な歯止めが効かなくなったときです。
そういうときって自分でも恥ずかしい。だから「躾」という言葉で自分を擁護するのです。
躾とはそんなものじゃない。
愛情の先にあるもの。
だけど、暴力の先には決して愛情はない。
これを愛情だといえる人ってストーカーのロジックと同じだということを認識した方がいい。
行き着く先は犯罪です。
躾(しつけ)は親の言い訳だよ。
親も反省すべきところでは反省しましょう。
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